新しいシューマン夫妻像の確立へ

 19世紀ロマン主義音楽の立役者、ローベルト・シューマン(1810-1856)、妻クラーラ・シューマン(1819-1896)

夫妻の研究がかなり進んで来た。2006年の没後150年、2010年の生誕200年が原動力になっている。

 ローベルトの創作・文筆活動が表裏一体だったこと。ピアニストを断念した真の原因が無理な指の拡張練習にあったこと。さらに、クラーラとの結婚について、父フリードリッヒ・ヴィーク(1785-1873)の反対がどこにあったかも明らかになった。浪費、たばこ、酒。「新音楽時報」を発行しても、経済観念が乏しく、家族から援助を受けていた。常にたばこを吸い、寝たばこから命を落とすことすらあった。酒にしても、あちこち飲み歩いていたため、ライプツィッヒの町では有名だったという。さらに、シューマンの親友でもあったメンデルスゾーン、ショパンは純粋なプロの立場から、シューマンを「アマチュア」と評していた。和声・対位法を学ぼうにも、「面白くない」と言って、バッハ、平均律クラヴィーアを独習するだけになった。シューマンが本格的な音楽家として認められたとも言い難い。デュッセルドルフの音楽監督が挫折した一因にはメンデルスゾーン、ショパンの視点が当たったといえる。シューマンの作曲料を見ても、クラーラと結婚した当初より、ドレースデン、デュッセルドルフ時代の方が高額になっていた。また、シューマンの作品が綿密、かつ緻密な作曲技法を用いていたこともはっきりしてきた。

 クラーラが優れた女性作曲家で、ローベルトの作品に比肩するものがあったこと。ピアニストとしても傑出、コンサート・プログラムでローベルトなどの作品を演奏する際、用心深く構成を考えていた。結婚に際し、主婦の悩み、ローベルトが作曲中、ピアノの練習ができなかった。演奏旅行でもローベルトは相手にされなかったためか、ローベルトが不快感を抱いていた。ローベルトとの間に8人の子どもを産み育てたものの、三女ユーリエ、四男フェリックスは肺結核で夭折、長男エミールは幼くしてこの世をさり、次男ルートヴィッヒは生涯の大半を精神病院で過ごすことになった。三男フェルディナントの結婚、モルヒネ中毒もクラーラを苦しめている。しかし、長女マリー、四女オイゲニーは独身だったものの、ピアノ教師、ピアニストとなった。次女エリーゼは幸せな結婚生活を送った。クラーラはフェルディナントの娘、ユーリエを音楽家にすべく育てた。ユーリエは音楽家にならず、結婚したものの、夫に先立たれた後、音楽教師として子どもたちを育てた。

 シューマン夫妻が19世紀を代表する音楽家夫妻であったことは間違いない。日本では西原稔のピアノ作品研究、藤本一子による優れた評伝が出たこと、オランダの弁護士、ピート・ワッキー・エイステンによるシューマンの結婚の真実、モニカ・シュテーゲマンのクラーラの評伝の訳書出版は大きい。そろそろ、原田光子「真実なる女性 クラーラ・シューマン」、若林健吉「シューマン 愛と苦悩の生涯」から卒業すべき時期かもしれない。