クラシック音楽の代名詞となった帝王、ヘルベルト・フォン・カラヤン(1908-1989)は、伝説の巨匠、ヴィルヘルム・フルトヴェングラー(1886-1954)と共に多くの著書が出版された。オペラ、コンサート、レコーディングはもとより、映像、放送などあらゆる分野で優れた才能を発揮、文字通りヨーロッパの主要ポストに君臨した。カラヤンに匹敵する存在はレナード・バーンスタイン(1918-1990)だろう。
オーストリアの音楽評論家、カール・レーブル(1930-2014)はカラヤンを冷静に見つめ、観察して来た。実際、「奇跡のカラヤン」と言われ、かえって傷ついたという。とはいえ、カラヤンとナチスとの関係が取りざたされたとはいえ、キャリアのためであったという。レーブルは、筋金入りのナチスなら党員であることを自慢していたことを指摘する。実際、カラヤンは音楽だけで、ナチスのことはどうでもよかった。
一方、ナチス支配の中ではゲッベルスはフルトヴェングラーを支持、ゲーリングはカラヤンを支持していた。ナチスの権力闘争にも翻弄されていた。また、フルトヴェングラーもカラヤンが面白くなかった。それでも、カラヤンがトスカニーニと共にフルトヴェングラーを手本にしていたこと、カラヤンがそれなりに尊敬していたこともフルトヴェングラーも知らなかった。カラヤンも見るところを見ていた。だからこそ、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の常任となり、帝王となれた背景がある。
カラヤンがヴィーン国立歌劇場総監督から去った背景には、オペラ・ハウスのごたごたに関わりたくなかった上、新しい作品への意欲があった。ザルツブルクでベルリン・フィルハーモニー管弦楽団と共にイースター、聖霊降誕祭の時期にオペラ、コンサートからなる音楽祭を開いた一因だろう。
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団との関係が悪化したザビーネ・マイヤー事件は、オーケストラが認めなかった理由も頷ける。マイヤーはソリストであって、オーケストラには合わない。カラヤンはそこまで理解していなかった。ベルリンでの立ち位置にも厳しい目が向けられた。そんな中でのベルリン・フィルハーモニー管弦楽団とのベートーヴェン、ブラームスの交響曲全集は、晩年のカラヤンの一大記念碑ではなかろうか。1978年以降、カラヤンは背中の痛みなど、病に苦しむ。そうした背景もある。
カラヤンは1973年までが絶頂期だっただろう。ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団との来日公演は、絶頂期の終りを告げただろう。ヴィーン・フィルハーモニー管弦楽団との関係を強めつつも、1989年7月16日、自宅を訪れた大賀典夫の目の前でこの世を去ったカラヤンには何が残っただろう。
レーブルが描く実像には、常に自制しながら語るカラヤンを見つめている。カラヤンは本当に己をさらけ出せなかったか。「エエカッコシイ」だったか。それを問いかける。
関根裕子の訳も読みやすい。国立音楽大学から筑波大学大学院、ヴィーン大学に留学、ヴィーン世紀転換期の音楽・文化を専門とする。こうした専門家を訳者にどんどん起用してほしい。
(音楽之友社 1850+税)
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admin (木曜日, 21 4月 2022 05:51)
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