中村紘子「ピアニストという蛮族がいる」は作り話である

 日本のベートーヴェン受容史の礎、久野久子(1885-1925)の生涯をまとまったかたちで公にした最初のものは、日本の女性の地位向上に尽くした長谷川時雨(1879-1941)晩年の女性評伝集「春帯記」(1937年)である。その後、吉田光邦(1921-1991)が京都大学の研究紀要「人文学報」(1971年)に「挫折のピアニスト 久野久子」を執筆した。吉田の場合、長谷川時雨の評伝をはじめ、当時の新聞記事、東京芸術大学所蔵の久野の履歴を用いている。

 その後、堀成之「日本ピアノ文化史」(1982-1984年 「音楽の世界」日本音楽舞踊会義)にも久野に関する記述がある。その延長線上に、中村紘子「ピアニストという蛮族がいる」(1991年、1995年 文芸春秋社)が出た。

 2016年に惜しまれつつ世を去った、日本を代表するピアニストの一人、中村紘子による評伝は全くの作り話である。その底本が兼常清佐(1885-1957)晩年の雑誌記事「英雄クノ・ヒサコ」である。兼常については、「兼常清佐著作集」全15巻が、蒲生美津子を中心として大空社から復刻版で出版されている。この文章は著作集には入っていない。今は倒産した出版社、雄鶏社が出していた雑誌「雄鶏」に掲載されていて、国立国会図書館のデジタル資料で閲覧可能である。

 1915年1月、兼常は久野が交通事故で重傷を負った新聞記事を見て、久野への親近感を抱き、東京へ出てから久野の熱烈な賛美者になった。久野のピアノの弟子で、後に妻となった篤子が兼常に原稿を依頼すると、久野への賛美が激しくなった。1916年12月3日、交通事故からの復帰記念コンサート、1918年12月7日、8日のベートーヴェン・リサイタルを激賞した後、1922年、ドイツ、ベルリンへ留学する。篤子には、久野にベルリンに来るようにと書き送っている。1923年、久野がドイツ、オーストリア留学に出発、留学に関する面倒も見ている。1924年、兼常は帰国、1925年に久野の自殺となる。兼常は久野の死後、だんだん久野を攻撃するような文章が目立った。

 「英雄クノ・ヒサコ」は完全な中傷で、中村が底本に用いたことは残念である。また、宮本百合子「道標」も底本にはならない。宮本は久野の演奏を聴いていない。小説というフィクションに過ぎない。「近江の女」もアマチュアがまとめたもので、底本に用いるべきものでもない。生い立ちにしても兼常に基づいていて、完全な作り話である。音楽学者の中にもこれを用いていることは残念である。

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コメント: 1
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    石島 崇男 (木曜日, 01 12月 2022 07:35)

    宮沢賢治の『セロ弾きのゴーシュ』のことを調べていて、ふと久野久子女史のことを思い、インターネットで調べてこの記事に出会いました。人に対する評価は、私自身もそうですが、少ない資料で判断して、それが絶対と思う傾向がありそうで、久野女史についても、その流れで曲解されているのを残念に思います。 賢治は、ある時期、久野女史演奏のベートーベン(賢治は一回も「ベートーヴェン」とは書きませんでした)の「月光曲」のレコード(10吋盤2枚 市価2円40銭 賢治のメモ)を持っていて聴いていました(そんなに何回もは聴かなかったようです。「新品」とありますので)。やがて昭和2年の羅須地人教会のレコード交換会に、他の「運命」「新世界より」「梅蘭芳」などのレコードとともに出品され、これは菅野(不明、調べたことがない)という人に引き取られたようです。
     ゴーシュの単純な成功物語と考えるのではない、別なあり方として、久野久子の留学中の自殺と藤原芳江の帰国凱旋演奏会の記事が、ほぼ同時期に新聞に載る、この二人の正反対とも言えるあり方が、賢治の心を刺激して、ゴーシュを「別なあり方」へ導いて行った、そんなふうに思っています。
     記事を読ませていただきまして、ありがとうございます。