スペインの名ピアニスト、アリシア・デ・ラローチャによるショパン、舟歌、Op.60。ヴェネツィアの美しい歌の影には、ショパンとサンドの関係が破綻に近づきつつある予兆が流れている。
アルベニス、グラナドスなどのスペイン音楽第一人者でありながら、ショパン、シューマンにも定評がある。ラローチャならではの熱い歌心に、晩年のショパンの寂しさ、悲哀を漂わせている。サンドには2人の子ども、モーリス、ソランジュがいた。モーリスがショパンへの反感を掻き立てる一方、ソランジュはショパンへと傾く。ショパンのとサンドの関係が破綻した原因は、ソランジュの結婚問題にあった。当初、ソランジュは貴族ドゥ・プレオとの結婚話が持ち上がったものの、彫刻家クレサンジェと結婚した。サンドとソランジュ、クレサンジェ夫妻との諍いが勃発、ショパンが事情を知らず、2人に馬車を貸したことでサンドの怒りを買い、関係は破綻した。
その後、イギリスの富豪、スターリング姉妹に誘われるまま、イギリスへの演奏旅行となった一方、ショパンの命取りともなった。パリに帰り着いたショパンは、持病の肺結核が悪化、パリ郊外で静養するも空しく、姉ルドヴィカがパリにやって来て介護を受ける中、1849年10月17日、この世を去った。サンドはルドヴィカがフランスにやって来たことを知り、ショパンのことを訊ねた書簡を送るも無視された。
パリのショパンの墓銘碑を作ったのがクレサンジェだった。クレサンジェは、ショパンへの恩返しとして制作にあたったとはいえ、ソランジュと離婚する。ソランジュはクレサンジェとの間に生まれた子を連れ、サンドの許へ戻る。サンドもショパンの訃報を聞くと、病臥したという。
サンドは諍いが原因でショパンとの関係を断ったとはいえ、どこかに罪悪感があっただろう。1876年、72歳でこの世を去ったにせよ、ショパンを忘れることはできなかっただろうか。
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