アルトゥーロ・ベネデッティ・ミケランジェリ シューマン ヴィーンの謝肉祭の道化 Op.26

 イタリアの名匠、アルトゥール・ベネデッティ・ミケランジェリによるシューマン ヴィーンの謝肉祭の道化 Op.26。1957年、ロンドンでのライヴ録音である。

 シューマンはヴィーンへ行き、ヴィーンでも「新音楽時報」のような音楽雑誌を発刊しようとした。しかし、クラーラの父、フリードリッヒ・ヴィークの嫌がらせがあったり、シューマンに対抗する音楽雑誌を出そうという動きがあり、うまく行かなかった。それでも、シューベルト 交響曲第8番 D.944「グレート」の自筆譜を兄、フェルディナント・シューベルトから譲り受け、メンデルスゾーンへ送り、ライプツィッヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団で初演、世に送り出すことができた。ピアノ作品では、アラベスク Op.18、花の曲 Op.19、フモレスケ Op.20が生まれた。

 ミケランジェリは、この作品への愛着が深い。何度か取り上げている。ヴィーンの喧騒、その中で、クラーラへの思いが伝わって来る。また、オーストリアのメッテルニヒ体制への反抗も見られる。1830年を境に、メッテルニヒ体制のほころびが大きくなり、1848年の3月革命、1849年のドレースデン革命で破綻する。

 第1楽章。ヴィーンの喧騒、クラーラへの思い、フランス国歌「ラ・マルセイエーズ」の引用には、メッテルニヒ体制への反抗を垣間見る。第2楽章では、クラーラへの思い。第3楽章のユーモア。第4楽章でのヴィーンへの未練。第5楽章でのヴィーンの喧騒の回想。シューマンがヴィーンへ寄せた思い、ジャーナリストとして感じた不自由な雰囲気、シューベルトの交響曲の発見。大きな仕事をやったという思いもある。

 ミケランジェリは、シューマンがヴィーンで見聞きしたもの、クラーラへの思い、ヴィーンの保守性などへの反抗心などを見事に捉えている。生涯、自分のピアノを持ち運んでコンサートを行い、理想とした音楽を奏で続けた。ヤマハ銀座店のピアノ売場に努めていた川上輝久が、ミケランジェリのリサイタルを聴き、ピアノの音色に圧倒され、技術者としてヨーロッパに派遣され、調律師として名声を築くこととなった。川上の努力がヤマハピアノの音色などを向上させ、世界のヤマハへの道を開いた。その意味でも、ミケランジェリが日本のピアノの向上に一役買ったと言える。

 ミケランジェリもスイス、ルガーノに住み、1995年に亡くなった。バックハウス、ミケランジェリが愛したルガーノ。名ピアニストたちが愛した風光明媚なこの町を訪れるなら、面影を感じつつ、街並みを歩きたい。