バッハと聖書 鈴木雅明 音楽講演会

 

 日本キリスト改革派、東京恩寵教会で日本を代表するバッハ演奏家、鈴木雅明の音楽講演会「バッハと聖書」が行われ、教会の礼拝室はほぼ満席だった。

 今回のテーマ「バッハと聖書」は、バッハが1733年、入手したカーロフ聖書全3巻のファクシミリ版出版に合わせたものであった。これは、日本音楽学会で1月の大雪がもとで急逝された磯山雅氏が紹介している。カーロフ聖書とは、17世紀の神学者アブラハム・カーロフによる旧新約聖書、解説書で、バッハはこの聖書を読みつつ、自らのキリスト教信仰を深めていったと言えよう。その中には、バッハ自身の書き込みもかなりある。

 これに因み、教会カンタータ、BWV106「神の時こそ、最上の時」を取り上げ、人間と死の問題を見つめつつ、イエス・キリストの救いを待ち望む姿をいかに描いているかを楽譜とともに解説した。その中で、「死の定め」を歌った合唱部分には、平均律クラヴィーア曲集第1巻、BWV861のフーガの演奏解釈のヒントが得られた。

フーガの主題が「死の定め」を表しているなら、遅めのテンポでじっくり歌い上げるべきではないかと感じた。これが正しいかどうか、試してみたい。

 人間に必ず訪れる死をテーマとし、その中に神の意志を見つつ、栄光を讃えるカンタータほど、心に響くものはない。また、小編成のオーケストラを用いたこと、19世紀になっても演奏されていたことも頷ける。

 2019年の講演会も楽しみである。

 

 

ベートーヴェンと変奏曲

 

 日本ベートーヴェンクライスは総会の後、野平一郎、土部英三郎、平野昭による鼎談「ベートーヴェンと変奏曲」を行った。ベートーヴェンの創作活動中、変奏曲の存在は重要である。変奏曲とその社会史、そこから見たベートーヴェンの創作活動を再検証できた。

 ベートーヴェンは「ドレスラーの主題による変奏曲」から「ディアベッリの主題による変奏曲」に至るまで、交響曲から室内楽、ピアノ作品に至るまで変奏曲を書き続けた。単独のものから楽章ものにいたるまで、様々である。まず、変奏曲、即興演奏の社会史に始まり、ピアノ・ソナタ第32番、Op.111、第2楽章、ディアベッリの主題による変奏曲に至る。

ことに、Op.34、Op.35の重要性を強調していた。ピアノ・ソナタ第32番、Op.111、第2楽章は変奏曲、ソナタ形式が混合、調和していることに気づかされた。ディアベッリの第28変奏~第32変奏も同様である。自由な境地に立ったベートーヴェンの姿を再認識した。

 ソナタではOp.27-1、Op.110の第3楽章の根底には教会ソナタの構成原理があると考えている。緩-急-緩-急の構造には教会ソナタの要素が隠れているような気がする。いずれ、解明して見たい。

 

 

 

ギロックを知る休日 生誕100年 その魅力と人気

 

 テレビ朝日、「題名のない音楽会21」は熊本マリ、スポーツ選手武井壮を迎え、2017年に生誕100年を迎えたアメリカ作曲家、ウィリアム・ギロック(1917-1993)のピアノ作品の魅力、人気に迫った。

 ギロックは、1969年、「叙情小曲集」が日本で出版され、「こどものためのアルバム」、「発表会のための小品集」が全音楽譜出版社から出版、1996年、日本ギロック協会設立と共に多くの作品が出版された。また、キャサリン・ロリン、グレンダ・オースティン、マーサ・ミアー、キャロリン・ミラー、マーガレット・ゴードン、エリック・バウムガートナーといったアメリカの作曲家のピアノ作品が続々と日本で出版された。

 ギロックの魅力は単純な中に完成度の高い作品を残したことにある。和声、テクニックもパターンされ、弾きやすい。左右の手の交叉もも用いている。大作曲家の作品にヒントを得た作品もあって、身近にその世界を体験できることにある。これはギロックのみならず、アメリカの作曲家のピアノ作品全体に共通する。楽しみつつ、テクニックを習得できること。日本の作曲家たちがもっと見習うべきことではないか。

 アメリカの作曲家たちの作品の中には、日本で出版すべき優れた作品が多い。2台ピアノのためのコンツェルトもあって、コンツェルトの演奏準備のための教材になる。また、2台ピアノのための作品にも注目すべきものが少なくない。ギロックの作品から、アメリカのピアノ作品への関心を高めたピアノ指導者たちもいるだろう。ギロックからアメリカを知ることは、アメリカ音楽の本質を理解する手がかりにもなる。

 ギロックの音楽はアメリカのピアノ作品への関心を高める起爆剤となるだろう。

 

 

伊福部昭と黛敏郎 世界が認めた作曲家

 

 テレビ朝日「題名のない音楽会」は、井上道義が伊福部昭(1914-2001)、黛敏郎(1929-1997)を取り上げた。伊福部と黛。共に世界が認めた日本人作曲家である。

 伊福部は北海道釧路市出身、独学でヴァイオリン、作曲を学び、パリでアレクサンドル・チェレプニン賞を受賞、この時は松平頼則も受賞している。松平も独学だった。民族色の強い作品を残し、東京芸術大学で教鞭を執った後、東京音楽大学教授から学長となって、大学の改革を行い、レヴェルアップを図った。

 黛は神奈川県横浜市出身、東京音楽学校で橋本国彦、伊福部に学び、ジャズピアニストとしても活躍した。別宮貞雄、矢代秋雄とともにパリに留学するものの、1年で「西洋に学ぶものなし」として帰国、パリ留学中に三島由紀夫(1925-1970)と出会い、一時期仲違いがあったとはいえ、交友が途切れることはなかった。帰国後、芥川也寸志(1925-1989)、団伊玖磨(1924-2001)と3人の会を結成、当時の先端を行く音楽をどん欲に取り入れ、作曲活動に猛進した。また、1964年8月から1997年4月10日に亡くなるまで「題名のない音楽会」の司会を務めた。一方、1970年11月25日に起った、三島由紀夫が自衛隊に乱入、割腹自殺した「三島事件」以降、保守論客となったことが災いし、作曲活動はオペラ「金閣寺」、「古事記」、バレエ「ザ・カブキ」、「M」のみが主要作品となった。

 井上は、伊福部作品では、後の映画音楽「ゴジラ」に用いられた旋律が出て来る「ヴァイオリンと管弦楽のための協奏風狂詩曲」からの部分を取り上げた。この作品が1952年に書かれている。「ゴジラ」は2年後の1954年である。なるほどと肯いた。

 黛作品では「饗宴」からの部分を取り上げた。これも、黛のモダニズムを代表する作品で、ジャズの要素を巧みに取り入れている。尤も、黛は学生時代、ショパン「24の前奏曲」に倣い、24の調性で前奏曲集を作曲しようとした。残念ながら12曲のみとなった。昨年、野平一郎がリサイタルで演奏した際、黛がずば抜けた才能の持ち主であり、パリ留学を1年で切り上げたことを裏付けることにもなった。

 井上が「世界が認めた日本人作曲家」として伊福部、黛を取り上げたことは高く評価したい。それは、「題名のない音楽会」を創設した黛へのオマージュでもある。

 

 

2017/11/19

ユン・イサン 生誕100年

 11月18日、東京大学で韓国の作曲家、ユン・イサン生誕100年を記念してシンポジウム、コンサートが行われた。

 日本統治下の朝鮮に生を受け、朝鮮が日本の支配から脱したとはいえ、南北分断国家となりつつも祖国統一を願い続け、ドイツ、ベルリンで世を去ったユン・イサンは、韓国では「北朝鮮のスパイ」などと汚名を着せられてきた。1967年、ドイツから韓国に拉致、死刑判決を言い渡されたとはいえ、当時の西ドイツ政府などの抗議で九死に一生を得た。殊に、パク・チョンヒ、パク・クネ親子、イ・ミョンバクといった保守政治家たちがユン・イサンを敵視してきた。

 今回のシンポジウムには在日コリアン2世で、東京経済大学で教鞭を執るソ・キョンシク、北海道大学留学中のキム・ソンミン、ソウル大学で教鞭を執るイ・キュンジュンの3氏、長木誠司、小野光子、沼野雄二、福中冬子の4氏による発表、パネル・ディスカッション、秋山友貴、石井智章、山根風仁によるコンサートで締めくくった。

 ソ・キョンシク氏はユンへの思い入れが伝わった。ただ、発表時間が長引いたことが惜しかった。長木誠司氏は黛敏郎との共通点、小野光子氏は武満徹との共通点に言及した。リ・キュンブン氏はユンとアジアとの問題を提起、キム・シュンミン氏は未だに韓国での保守政治家たちにおけるユンへの敵視に触れ、沼野雄二氏は1980年代以降のユンの作品を再検証した。福中冬子氏は音楽史から見たユンに触れ、締めくくりとした。

 コンサートではオーボエのための「ピリ」、ピアノのための「インターリューディウムA」、オーボエとチェロのための「東西ーミニアチュール」、チェロとピアノのための「空間」を取り上げた。東京芸術大学出身の若手演奏家たちによる演奏は好演で、ユンが祖国朝鮮に根差した作曲家であることを改めて認識した。

 20世紀のアジア史に翻弄され続けた作曲家ユン・イサンが、韓国での受容がどこまで進むだろうか。

新しいシューマン夫妻像の確立へ

 19世紀ロマン主義音楽の立役者、ローベルト・シューマン(1810-1856)、妻クラーラ・シューマン(1819-1896)夫妻の研究がかなり進んで来た。2006年の没後150年、2010年の生誕200年が原動力になっている。

 ローベルトの創作・文筆活動が表裏一体だったこと。ピアニストを断念した真の原因が無理な指の拡張練習にあったこと。さらに、クラーラとの結婚について、父フリードリッヒ・ヴィーク(1785-1873)の反対がどこにあったかも明らかになった。浪費、たばこ、酒。「新音楽時報」を発行しても、経済観念が乏しく、家族から援助を受けていた。常にたばこを吸い、寝たばこから命を落とすことすらあった。酒にしても、あちこち飲み歩いていたため、ライプツィッヒの町では有名だったという。さらに、シューマンの親友でもあったメンデルスゾーン、ショパンは純粋なプロの立場から、シューマンを「アマチュア」と評していた。和声・対位法を学ぼうにも、「面白くない」と言って、バッハ、平均律クラヴィーアを独習するだけになった。シューマンが本格的な音楽家として認められたとも言い難い。デュッセルドルフの音楽監督が挫折した一因にはメンデルスゾーン、ショパンの視点が当たったといえる。シューマンの作曲料を見ても、クラーラと結婚した当初より、ドレースデン、デュッセルドルフ時代の方が高額になっていた。また、シューマンの作品が綿密、かつ緻密な作曲技法を用いていたこともはっきりしてきた。

 クラーラが優れた女性作曲家で、ローベルトの作品に比肩するものがあったこと。ピアニストとしても傑出、コンサート・プログラムでローベルトなどの作品を演奏する際、用心深く構成を考えていた。結婚に際し、主婦の悩み、ローベルトが作曲中、ピアノの練習ができなかった。演奏旅行でもローベルトは相手にされなかったためか、ローベルトが不快感を抱いていた。ローベルトとの間に8人の子どもを産み育てたものの、三女ユーリエ、四男フェリックスは肺結核で夭折、長男エミールは幼くしてこの世をさり、次男ルートヴィッヒは生涯の大半を精神病院で過ごすことになった。三男フェルディナントの結婚、モルヒネ中毒もクラーラを苦しめている。しかし、長女マリー、四女オイゲニーは独身だったものの、ピアノ教師、ピアニストとなった。次女エリーゼは幸せな結婚生活を送った。クラーラはフェルディナントの娘、ユーリエを音楽家にすべく育てた。ユーリエは音楽家にならず、結婚したものの、夫に先立たれた後、音楽教師として子どもたちを育てた。

 シューマン夫妻が19世紀を代表する音楽家夫妻であったことは間違いない。日本では西原稔のピアノ作品研究、藤本一子による優れた評伝が出たこと、オランダの弁護士、ピート・ワッキー・エイステンによるシューマンの結婚の真実、モニカ・シュテーゲマンのクラーラの評伝の訳書出版は大きい。そろそろ、原田光子「真実なる女性 クラーラ・シューマン」、若林健吉「シューマン 愛と苦悩の生涯」から卒業すべき時期かもしれない。

 

ギロック・フェスティバル 2017

 2017年はアメリカの作曲家、ウィリアム・ギロック(1917-1993)生誕100年に当たる。

日本で初めて出版されたギロックの作品は、1969年に全音の出版となった「叙情小曲集」である。1996年、カナダ在住の安田裕子を中心に日本ギロック協会が設立、全国のピアノ指導者、ピアニストたちが会員となり、全音楽譜出版社からギロックをはじめ、キャサリン・ロリン、グレンダ・オースティン、マーサ・ミアー、キャロリン・ミラー、エリック・バウムガートナーなどの作品を紹介している。

 日本ギロック協会では、ギロック生誕100年を祝い、東京、銀座のクルーズ・クルーズ・ザ・ギンザでギロック生誕100年記念フェスティバルを開催した。全音楽譜出版社から下條俊之、新居隆之の両氏、音楽之友社からは「ムジカノーヴァ」編集長、西脇朗子氏が出席、盛会であった。

 まず、安田裕子、西江恵子の演奏、下條、西脇両氏の祝辞に続き、新居氏による乾杯の祝辞を皮切りに、アメリカの出版社で自作を出版する池田奈緒子、ギロックに関する著書を出版している今野麻実、アレンジもの、自作を出版している後藤ミカの3氏によるトーク・コンサート、鍵盤ハーモニカによる演奏、ギロック協会の支部による演奏、支部紹介、ギロック生誕100年記念出版となった「ギロックの生涯」プレゼントの抽選でお開きになった。

 このフェスティバルに参加、支部会員として演奏し、一方でアメリカから様々な作曲家たちのピアノ作品を取り寄せ、日本に紹介していきたいと考えている。ロリン、オースティン、ミアー、ミラーの作品には日本未出版のものが多い。また、様々な作曲家たちのピアノ作品には、クラシックはもとよりジャズ、ポップスなどの要素がふんだんに含まれ、アメリカの多様性を伝えている。そんな中で、ピアノ指導者のニーズを観察しながら、一つでも多くの作品集を日本に紹介していきたい。

 

 

日本の作曲家再評価への道

 日本アルバン・ベルク協会では、今年のサントリー音楽財団、サマーフェスティバルのプロデューサーを務める片山杜秀が、日本の作曲家再評価に繋がる「日本再発見:戦前・戦中・戦後の日本人作曲家の知られざる名曲」というタイトルで講演会を行った。

 その中で、平尾貴志男(1906-1953)とほぼ同じ年代を生き、忘れられた作曲家となった大沢寿人を取り上げた。大沢は戦前日本のモダニストとして、国際的な評価を得たものの、当時の日本ではあまりにも最先端を行った作曲家だったため、楽壇から冷遇され、早逝と共に忘れられた存在となった。

 また、大阪ラジオ・シンフォネットを結成して、音楽面での啓蒙活動を行ったり、神戸女学院大学で教鞭を執ったりした。ラジオ、宝塚歌劇団関係の音楽を作曲している。自分の思うがままの音楽活動が送れなかったことが、かえって大沢の寿命を縮めたことも否めないだろう。

 片山氏は大沢作品の中から、いくつかを部分的に紹介し、大沢のモダニズムの本質の実例を示した。また、第2次世界大戦中の日本の作曲家たちの創作活動にも言及、戦争という厳しい時代をどう生き抜き、作品を生み出したかも明らかにした。

 7月21日、野平一郎が黛敏郎のピアノ作品を取り上げた際、学生時代の習作もあった。それらを聴きながら、モダニストとしての黛を知ることが出来た。黛がパリに留学したとはいえ、僅か半年で帰国した背景には、大沢の作品に触れていた可能性もあるだろう。これは芥川也寸志などにも言えるだろう。

 いずれにせよ、今年のサントリー音楽財団、サマーフェスティバルでの日本の作曲家再発見が大きな話題を集めるだろう。楽しみである。