前田久八再考 誰でも楽しめる音楽から本格的なオペラへ 全ての人に音楽を

 7月9日、東京大学、駒場キャンパスで行われた日本音楽学会、東日本支部、第77回定例研究会。4月から7月にかけて、大学院出身者の修士論文発表が中心で、この時期、新進の若手研究者たちの発表を聞き、新しい発見に出会う一方、聞く側もこれからの研究のヒントを得たりする、刺激の時でもある。

 明治期後期の日本で、「誰もが楽しめる音楽」を目指し、ピアノ伴奏とはいえ、充実した、本格的なオペラ作曲に取り組んだ前田久八。この時期、ピアニストでは橘糸江、神戸絢、幸田延などが活躍していた。当時、クラシック音楽を聴くなら東京音楽学校、奏楽堂に通った人々の大半が知識人、富裕層だった。前田は、才能ある人たちだけではなく、誰もが楽しめる音楽を目指した。

 それが、1910年、本格的な西洋音楽入門書「洋楽手引」出版に繋がった。当時、西洋音楽はロマン主義音楽花盛りとはいえ、フランスではドビュッシーの印象主義音楽、シェーンベルクによる12音音楽といった新しい音楽も台頭してきた。ロマン主義から近代・20世紀音楽へと移り行く時期だった。西洋音楽の動きを踏まえた、網羅的な音楽入門書を出したことは、日本の西洋音楽受容史として画期的だった。大正期・昭和初期に至る西洋音楽発展にも一役買った。

 むしろ、前田最大の功績は、源平合戦、一の谷の戦いでの熊谷次郎直実、平敦盛との戦いを描いた「新曲 残夢」はピアノ伴奏ながら、本格的なオペラ作品を生み出した。西洋の作曲技法を自分のものとして、テクスト・劇構成を考えた本格的な作品となっている。これが、完全なオーケストラによるものだったら、本格的なオペラ上演が実現しただろう。

 当時の東京音楽学校のオーケストラは草創期、本格的な交響曲演奏もままならなかったという。ここから本格的なオーケストラとして新交響楽団、現在のNHK交響楽団へと発展する。オペラ上演にも、近代演劇への抵抗感が残り、本格的な上演が昭和初期となった。前田久八は、ピアノ伴奏ながら、本格的オペラを作曲したことが、山田耕作たちへの素地となったことは大きい。

 前田の他にも、西洋音楽受容史に貢献した人物が一人でも多く再考され、日本近代音楽史解明に繋がってほしい。

鈴木雅明 音楽講演会 バッハと改革派教会

 日本を代表するバッハ演奏家、鈴木雅明が日本キリスト改革派、東京恩寵教会で「バッハと改革派教会」による講演を行った。オンライン・対面形式を取る形による。

 まず、教会の主任牧師、石原知弘牧師のあいさつに始まり、講演が始まった。バッハは1717年から1723年まで、ザクセン、アンハルト=ケーテン侯国ケーテンの宮廷楽長(カペルマイスター)に着任した。一方、これがバッハは人生最大の試練の時期にあった。レオポルト候に随行、カールスパートに赴いた時、最初の妻、マリア・バルバラを失った。残された子どもたちの悲しみは深かった。また、葬儀の際、葬儀代を請求された際、

「妻に聞いてくれ。」

と言ったほど、バッハも落胆していた。そんなバッハの前に現れたのが、ケーテンの宮廷トランペット奏者の娘、アンナ・マグダレーナであった。アンナ・マグダレーナとの再婚で、バッハは新たな道を歩むことになった。

 ケーテンではブランデンブルク協奏曲、クラヴィーアのためのインヴェンションとシンフォニア、フランス組曲、平均律クラヴィーア曲集第1巻、6つのヴァイオリン・ソナタといった器楽作品を残した。教会カンタータ・世俗カンタータもいくつか作曲している。

 ケーテンでは、レオポルト候自らヴィオラ・ダ・ガンバを奏するほどの音楽好きで、バッハと親密でもあった。フリーデリカ・ヘンリエッテと結婚したものの、ヘンリエッテが音楽嫌いだったため、レオポルト候の音楽熱も冷めた。これが、ライプツィッヒ、聖トーマス教会カントールに就任する一因となった。ケーテンはカルヴァン派で、ルター派教会もあったとはいえ、ルター派信者は教会での結婚式すら認められなかった。ルター派教会、聖アグヌス教会の牧師の評判もすこぶる悪かった。レオポルト候の母、ギーゼラ・アグネス候妃はルター派貴族出身、ルター派信者たちの権利も認めるべきであるとする立場を取ったため、レオポルト候と対立、母親の居城に近衛兵が攻め込む事件も起こった。こうしたお家騒動もライプツィッヒへ移った一因だったことも頷ける。

 鈴木がルターとカルヴァンの音楽観について、ルターは礼拝ではカトリックのミサをもととし、カルヴァンは詩編を重視したことを指摘した一方、カルヴァンがルターの影響を受けていたことも言及した。1573年、アンブロシウス・ロプヴァッサーがライプツィッヒでジュネーヴ詩編歌集を出版、ドイツでも詩編歌が広まった。ルター、カルヴァンが世の秩序は神によるものだとすることは、17世紀から18世紀半の絶対王政再考にもつながる。バッハが聖トーマス教会カントールとして、ドレースデンの宮廷に世俗カンタータを作曲、演奏していることから考えると、重要だろう。

 講演終了後の質疑応答では、ブクステフーデ研究に取り組む音楽学者もいた。いろいろな点から質疑応答が出て、充実したひと時だった。